昭和44年01月26日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
この前81節を一つ頂きましても様々な意味合いに頂きますね。この前頂きましたのは向こうへ降りたら安心じゃということは、私共が一生が修行じゃとおっしゃる一生が修行じゃという修行を成し終えて、いうならあの世へ行ったら安心じゃと言う風に頂きましたね。もしここにゃ思います事は、いよいよそれを深く広く思います事は、教祖様が教えて下さってあるいわゆる御神訓、御神誡、御理解と、言うならばたった183節183ヶ条ですね、例えば仏典とかバイブルなんかに比較致しますとね。
もう本当にたったこれだけの教祖様の金光様の、ご信心の教典とはこれだけ、これを覚えようと思ゃ本気で覚様と思うたらすっぐ覚えてしまうような簡単なもの。ところがこの中に含まれておるその意味の深さ広さということはもう限りがない。これはまぁ私はもう絶対にそうだと思うんですけれども、もう教祖様はご自身ですらお気付きになっとらんとこが、沢山おありになったんだと、いわゆる教祖様の知恵やら力やらそのう才覚で、この御教えが出来たんではなくて、教祖様を通して天地の親神様の働き。
いわゆる天地の親神様の神のいわゆる叡知ですね。神の知恵をもって出来たたんだということです。ですからもうその深さ広さそりゃもう只々驚くばかり。そうでしょうがね、私がここ約20年間余りこの事を毎日毎日説き続けても続けても、説き明かせぬんですから。最近なんかはもうようこの教典を基にしてから、こうしてお話しをさせて頂いておる、だから私はこりゃもう神乍らに頂いたところをまぁするんですから、前の晩からここばいっちょう話そうと、いったようなものじぁないですね。
今日なんかでも81節をほんにここ何日か前も頂いておると思う、思うたらもうお話は出来ませんのだけれども、頂くのは今日81節ですから、そのうまぁ頂くと又先日とは違った、はぁ成程そういう深い意味あいのものかと分からせて頂くように。その深さ広さはもう驚いてしまう。その深さ広さの中にね、人間が真実幸せになっていくいわば神様も喜んで下さり、金光大神喜んで下さり。言うなら神も助かり氏子も立ち行く道がこの中に含まれてあるんです。
ですから私共がこのう教えの追求とでも申しましょうかね。いわばこの御教えの深さに触れて行くということ、これもねやはりこれはお互いの腕こまぬいて考えた位の事では分からない。やはり神の叡知によってこれが教祖の神様を通して出来た御教えでありますから、またそれを神の叡知を持ってしなければ、到底感じつく事の出来ない事を、皆さん先ず信じてね御教えを頂かにゃいけませんです。同じ81節をこの前は赤に説かれたのに今日は白というて説かれる。
それがどちらも本当なんだから、そういう意味で私は椛目でここなら20年間余り説き明かされてきた、あのう御理解集というのが必ず教団の、いわば教団のと言うより人が助かる事の為の、いわゆるバイブルになると私しゃ思います。私の考えで話とるじゃないですから、いつの場合いも神様にヒントを頂くとか、いわゆる神の叡知と思わなきゃおられない、いわゆる実感をもって私がお知らせを頂いては、それを説いているのですから、それはそうなんです。
まぁその前置きが長かったですけれども、いよいよ81節に入らせて頂きますとね、氏子10里の坂を9里半登っても安心してはならぬぞということ、10里を登りきって向こうへ降りたらそれで安心じゃと。それでも気を緩めるとすぐ後へ戻るぞということ、それはどういう事かというとね。私共が結局そのう先から申しますように、信心とは例えばこりゃ御教えの追求とは本当な事を追求して行くのですね。本当の事を分からせて頂くのです。そこに自分の今までの思い違いであった思い違いが改められて行くのです。
だから思い違いであった時にゃひとつも楽ではなかった。思い違いでた時にはおかげが受けられなかったけれども、その思い違いが思い違いと分からせてもろうて。はぁこれが本当だと、それが自分のものになった時です、そこから本当のおかげが頂けるのです。いわゆる真実のおかげ、本当に神様が私共に下さろうとしておられるおかげが頂かれるのです。神も助かり氏子も立ち行くようなおかげが受けられるのです。ですから皆さん自分達の考えというようなものをね、もうそれを死守しておる人がある。
これだけは間違いないというて自分の思いというものをもうね。そのう少ぅしばかりの知識とか知恵とか学問とかで、これが本当だとこう思っておるそういう思いが一番つまらんです。その証拠にそういう考えではおかげが受けられんでしょうが、そういう考えではいわば本当に楽になれないでしょうが。安心がいかないでしょうが。例えば子供一人を育てるでもね、自分が育てるとこう思うているけれども、神様のおかげを頂かなければ、神様が育てて下さるんだね。
その神様がお育て下さるいうならばお手伝いをさせて頂くんだ。親が子を育てるというのはもう当たり前、それが本当だとこう思うておったが。そうじゃない親が育てるのじゃない神様が育てなさるんだと。その神様がお育て下さるそのお育てに対して、お邪魔にならんようにお邪魔にならんように、心掛ける事がそのいわば本当に良い自分の子供を育てる事が。いわゆる神ながらなお育てのおかげを頂く事が出来るんですよ。それを自分が育てようと思うて行儀の事いうたりね。
勉強の事を言うたりいろんな事になって来るのです。そりゃね本当にあのう何て言うですか、信心はなくても行儀よいお家はありますよ、子供なんかでもまだ小さいとが挨拶をするんですもんね。ちゃんと手をついてから「おっちゃまいらっしゃいませ」ちゅうてから、はぁお宅のお坊ちゃまはなかなか行儀がいい。なんかちゅうてからそれが良かつのごと思うとる。成る程そういう行儀は一生身について確かにいいでしょうけれどもね。そういう型にはめたような育て方をするから伸びないんです。
神様のお育てというものが中心になる。神様のお育て例えばなら今日は私は、その神様の育てる事をいったのじゃなくてから、そのね本当な事を言ってるね、人間が育てるのじゃない親が育てるのじゃない、神様がお育てになるのだと。その例えば御用そのお手伝い、そのお手伝いが過ぎて却って育っていきょる事を縮めたり、折ったり曲げたりするような事のないように、心掛けをさしてもらはなければいけないね。本当な事といやぁここでも本当な事をいよいよいう。
私が申しておりますよねここのひとつの、これは合楽の信心のまぁ独壇場だと。こりゃ合楽の信心の筋金だというふうにいろいろに申しております。成り行きを大事にするということは、もうそのまま神様の働きを大事にする事であり。神様を大事にする事だ。これはもう絶対に本当なんです。私が申しておりますね難はみかげと、教祖が仰っておられる、四神様は難あって喜べと仰る。けれども本当いうたら本当言うたら難はないのだと、私はそういっている。
ただ教える過程においてです、それを難儀だと思うておるからそお前が難儀と思うておるけれども、その難儀がおかげの元に成るぞというて説かれているので。ですけれどもそこんとこが自分のものになってしまう、分かってしまうとですねもう難じゃないです。私をお育て下さる為の、私により良いおかげを頂かせて下さろうとする、より力を与えて下さろうとする、より度胸を作って下さろうとする、神様のお働き以外にゃないのですから。もうそこには難はない、これが本当な事なんです。
そういう意味で言えば本当な事、皆さんは例えば私がいつも申しております、幾つかの事を皆さんが知つておられると思いますね。私は今朝方お夢を頂きました。なら目覚めさせて頂きいたら丁度三時ちょっと過ぎとったので其のまま起きさせて頂いた。三時半にここに出らせて頂いてから、今日は今朝からお夢を頂いてからどういうお夢だったか、どういうことであっただろうかと思うて、まぁそこで控えておる三十分の間にいろいろ考えさせて頂いた。
どうしても分からん意味が、ご祈念を終わらせて頂いて御祈念の時きゃその事忘れてしもうとった、他のことば御祈念しょるとね。それからここへご結界へつかせて頂いてから、ただいま今から御理解を頂こうというので、今日の御理解を頂かして頂こうと思うて頂かせて頂いたのが、この八十一節。八十一節を頂いて一遍読ませて頂いて。はぁあ今日お夢頂いたのはこの事じゃったと私は思うた。こんなお夢じゃった、何にかこう田舎の芝居小屋には入っとるような感じであった。
向こうからちょっとまぁ言うならば粋な遊び人風のあんちゃんというよりも、年配は私と余り変わらないぐらいの方が、その必ずものをもってやって来て、私もこちらからこう行ってそれが、向こうもわざとじゃないこっちもわざとじゃないのに、私が右に避けようとすると右に来る、左りに避けようとすると左に来る、それを二回こうやって繰り返し、向こうもわざとじゃない。こっちもわざとじゃない。だから私は済みませんということをね通り抜けようとこう思ってる。
ところがもう向こうがですもうよっぽどモヤモヤしたらしくてですね、私の横もうびんたを嫌と言う程はじいたんです。あぁ痛と思うたら又反対の方からまたこうやって、もう行き戻りそのうびんたをはじかれたお夢であった。その時にです私の心の中にもう何ぁんにも引っ掛からんとですよ。それこそ右を打たれたら左を出せ、それが本当だと私は思いこんどりますからね。ところがなら向こうの人はどうかというたら、そういうことじゃ時にゃもう必ず叩く事に決めとる人らしいのですね。
例えば相手がですこう言うたならこう言うて返さんならんと、いうことをそまぁいうて返さんならんなら、こっちが馬鹿にされるそげな馬鹿らしい話はないと、いうふうに思い込んでいる人があるんです。言うとき言うとかにゃ。もう向こうがまた馬鹿にする時にゃ、こっちもちゃんと言う事だきゃ言うといて決め付けておかにゃ、癖になるとね。それを本当だと思い込んでいる人だから必ず言うです。また必ずするです。右に行こうと思えば右にくる、左に行こうと思えば左に来る。
向こうもこっちがわざとだと思ってはいないらしいのだけれども。もやもやしている時にはベンプをハジクとが当たり前とこう思うとる訳。そこっちはベンプはじかれたら、こんだ右の方はじかれたら左の方ば出そうという位の気持ちで、いつもおるという事それを私は思い込んでおる。私共が例えば痛い思いをする時に、あっ痛よという前に私の場合なんかはもう本当に「済みません」と一番口です。私は言葉に出して済みませんは言わなかったけれども。
心の気持ちは、はぁ済みません叩かれてから。それを心の中で思いよる。ですからね私は本当な事を思い込むということ、だから例えば今のような事があってでもですね、こげん時にはもう叩くとが本当だと思うておる人は、それでおかげを頂くでしょうか。それじゃ徳も頂かなければおかげも頂かれん。成るほど横から見よったら気持ちの良かごとあるかも知れません。自分も気持ちがすうっとするかも知れません。横から見よったら私の方はぁありゃどうした馬鹿じゃろうかと。
叩かれちからニコニコ笑うとると、周囲から笑われるかも知れません。あの人は偉い人じゃと言う風に褒めてくれる者は、一人だってあるまいと思います。二つもはじかれて、しかもですね私が其の時思う事は、もう喧嘩どもするなら絶対私が勝とうちゅうごたるふうに、まぁ人がですその相手が。まぁその遊び人風の人じゃあるけれども、そのう喧嘩するなら私が強かろうごとふうな相手なんです。それでも私の心の中にゃあぁ相済みませんと言うのが、本当に実感としておる訳なんです。
だからそこで私がおわるありゃ馬鹿じゃなかろうかと言うて、周囲のもんにおる人達も恐らく笑うだろうと思います。ならけれどもですね笑はれてそんならば、済みませんというておる者はどういう事になって来るでしょうか、それが本当な事ですからそれによって徳を受けます。ところが如何に気持ちがすうとしたような事を言わうがしようがです、はぁ私気持ちよいごとあるべん部をバチバチはじかっしゃった、気持ちの良かのごとある。脇から見よったって気持ちの良かろうごたる。
英雄のごたる。自分も気持ちが溜飲が下がるとすうとするだろうけれども、それだけのもんでしょうが。神様がそういう者にお徳を下さるでしょうか。力を与えなさるでしょうか。結局思い込んでおる事の相違なのですよね。ところがですその事が中途半端であったり致しますとですとですかね、そうである事が分かっているけれども、ここは辛抱出来んどうしてくらわしたかどうして叩くか、叩きゃせんでもどうしてくらわすかと言うて言うに違いはない。
今日の御理解はねここのところを教えて下さってあるんですよ。「氏子10里の坂を9里半登っても安心してはならぬぞ」。本当な事が分からせて頂いて、もう大抵自分のものになっておるとも思うても。いよいよん時に言い訳をせんならんじゃったり、叩いて返さんならん様な事であったら、まぁだお前のものになっていないのだから安心は出来んぞということ、いよいよ思い込んでおってもう自分のものになっておると思うておってもね、油断をすると言い訳をする、叩き返す、腹を立てる。
成る程油断も隙も出来るもんじゃないですね。向こうへ降りたらもうそれが例え叩かれようがはじかれようがです、本当にもう右の頬を叩かれたら左の頬を出せと、ありゃ確かキリストの言うた言葉の中にあるそんなのがありましたですね。それは相手を喜ばせるとかなんかという意味じゃないんです、そうする事が本当なんです。それが本当なんです。だからそれが自分のものに成りきっておる時、私しゃ夢の中ではもう自分のものに成りきっているという感じです。
子供の時にいっちょだんくらわせられたっちゃナムアミダブツ、ナムアミダブツというと良うなるといったような、例えば信心がですいうならそういう思い込みがですね、50何年間続けられて参ります内に、夢の中じゃそういうおかげを頂いても、済みませんが先に出ておるということは有り難い。こりゃもう私のものになっておるから、これならもう安心だということにいわばなるのではないでしょうかね。それでも例えばなら油断をするとじきに又後へ戻ってしまうものですけれどもね。
そこに精進を重ねて行きよりさえすりゃ大丈夫だとね。例えば難はみかげであるということを分かっておる思い込んでおっても、難になって来るとやはりばたばたするでしょうが、それは自分のものになっていない証拠なんです。まぁだ十里のものであるなら七里か八里からぐらいしか登っとらんのです。信心によって教えられるところの御教え、しかもこれが本当だということを分からせて頂いて、その本当な事がです、自分のものに成り切った時に、私は向こうえ降りた時であると私は思います。
自分のものになるそこんところを、日々繰り返し繰り返ししなければです、なかなか自分のものになりません。偉そうに私がならこうお夢の中では卒業してた様に言うておるけれどもです、実際日常生活上にそのような事がある場合、卒業したように言うておるけれどもです、なら実際日常生活の上にその様な事がある場合ですね、私だっていつまた後に戻るやらわからない。難はみかげでぞ難あって喜べよと教祖、四神様は仰るけれども、実際は難はないのだと。
この世にゃ難はないと如何にも悟り済ましたように、私は言うておるけれども、難というものは、私の辞書からもう無くしてしまえと、いうような意味のいうことを言うておるけれどもです、実際私がなら難に直面した時に、やはり難と感じておるとするならばまだ卒業しておらん証拠。難じゃないあるものは総てが神愛だと、だから本当な事を思い込むための日々の稽古を繰り返し繰り返しさせて頂いて、それが自分の血に肉になって、そして咄嗟の場合にはじかれても。
あぁ何ということをなんて自分をくらわするかとちゅうごたるふうな、意気込みがですはぁね出らんで済むところまでですから、やはり相当稽古が必要だということになります。叩かれてね叩き返すごたる気持ちがですね、その事をよくよくなら何故叩かれなければならんのか、何故痛い思いをしなければならぬのか、何故情けない思いを今ここでしなければならんのか、何故ということをです例えばその相手の人なら相手の人、事柄なら事柄にこと寄せるというか。
その事のその事の為にあれがあぁ言うたからこうなったと、言う間は自分のものになっていない証拠。まあひとつ向こうにある御神意を分からせてもらう時、成る程痛い思いをせんならんはずの私である事を、見極めさせてもらうことも大切、けれどもとにかくねとにかくね相手が右を叩いたら左を出す、それが本当だということをなら思い込めたらですね、それが出来るなんでもない淡々としておれる。あちらは叩いてからまぁ気持ちが良かろうという。こっちは痛い思いと腹が立つというようなものであっちゃならん。
私は今朝からのお夢を頂いてからの、この八十一節を頂いて。ははぁ今日頂いたお夢はこの八十一節の。又新たな意味合いにおいての、これは説き方を教祖はなさっておられるなぁ、恐らく教祖様も今日のような御理解の事は分かっておられなかったろう。成る程この八十一節はいかに神の英知をもって、これがお話しになっており御理解になっておるということもあわせて感じます。まぁだどれだけ例えば、そのこれこの八十一節から頂けるか分かりませんね。
今日は皆さんひとつそういう八十一節のそこん所に、自分は合楽で拾何年間二十年近くも頂いてきて、これこうだということを思い込みもすりゃ分ってもおる事をもう一辺確かめて見て御覧なさい。案外自分のものになっていないのに驚きますよ。そこでせめて今日はですね、あのう育てるという事。自分の子供を育てるという事、私なら信者を育てるという事。自分が育てるとじゃないという事がよぉう分かっているけれども、私が信者を自分で育てようとしていることの多いのにいつでも驚くぐらい。
こがしこ言うて聞かしても分からんかという思いがいつもある。私が育てようと思うとるからね。だからそういう気持ちが本当にある間は信者は育たない。なら皆さんの子供の場合でも同し事。あぁあってくれるといいばってん、ここはこうやって育てるね。こげな事してはいけん癖になるけん言うとかにゃ怒っとかなにゃ、というような事を言うたりしたりするけぇいつまぁでん育たん、いつまっでも同じ事を繰り返すです。もう神様にお育てをお任せ仕切って、そして放任するのじゃないね。
そのお手伝いだけは一生懸命させてもらうということ。そのお手伝いの中にねそれを過ぎないように、というならそれが祈りというようなもの。祈りね。其の為に自分が修行するといったようなねいわば生き方にすりゃ。神様のお育てがです十分に私はお出来になると思います。親の言う事を聞くごたりゃ聞かせてもらうんがよかろうけれどもね、一辺そこに親のいうことを聞かんことが分かったならです、こりゃやっぱり自分で育てられる事だんじゃない。神様のおかげを頂かなければ。
いや本当にお育て下さるのは神様であると悟らせてもろうて、分からせてもろうて本当の事なんですから、本当の事をひとつ分からせて頂いて、実際の上にそれを体験させて頂く稽古をですね。させて頂きたいと私は思う。今日はそこんとこに私は今日は焦点を置きたい。でそれを本当に自分のものにし得た時、成る程自分が例えば信者は自分が育てるのじゃない、神様のおかげを頂かなければ育たんのであり、神様のおかげ頂かなければお育て頂けるものじゃない。
いくら先生が偉いからというて先生が育てようと思うても、信者が育つはず絶対はないと私は分かっておるようであって、やはり自分が育てようとしておる。そこんところを今日私自分であのう取り組んで行きたいとこう思う。それが例えばいよいよ体験の上にも思い込みの上にも自分のものになったときです。私はいわば十里の坂を上りきって向こうへ降りた時であるとこう思います。
まぁだ現在私は思い込んでおるようであるけれどもね、まぁだ自分が育てようとしておるところに。まぁだ八里か九里しか登っておらんなということを、ひとつ分からなければいけませんね。そういう私が思い込み向こうえ降りたら、例えば信者が育つということにおいても、そこんところが分からせて頂いた時に、いわば合楽教会の信者がもっともっと立派に、しかも沢山育って行く事を私は確信いたします。
私の小さい考え私のつたない信心、それによって育てようとするような、いわば狭い了見があるから、本当に信者が育たないのだという思い込みを、分かっておるようであって分かっておらん。それを自分のものにして行くのが、いわば十里の道を十里登った時であり、又は向こうえ降りた時であると言う事をです今日は私は思います。どうぞ本当な事を皆さんいくらも知っておられますね。
合楽でこういう行き方が本当だと、これが本当だとなら知っとられますから、その知ってる本当である事をもう一辺確かめてみる。そしてまだ自分の血に肉になってない、ややもすると後戻りをしているような事に気づくならば、いよいよそこに精進させて頂かなくてはならん。今日は特にとりわけひとつ育つとか育てると言うがね、育てるということに焦点を於いて、今日一日の修行をさせて頂きたいと思うですね。
どうぞ。